matsuhiro blog

頭の整理のために文字起こしする場

【最終日】京都大学サマーデザインスクール

201699()京都大学サマーデザインスクールに参加した。最終日。

http://www.design.kyoto-u.ac.jp/sds2016/index.html

 

今日を含め水曜から三日間の集大成をまとめ、15時からポスタープレゼン。会場設置があるので実質作業できる時間は9時から12時の3時間のみ。私たちのところは、まだまとめる作業に入ってないのでここからが正念場。やばい

 

 

【何のためにやるのか

初っ端にこの質問をした。

 

「この年表を作る作業は誰のために何のためにやっているのですか」

「後世に残すため。テーマ番号34番という歴史を記録し、年表にする。年表をどう使おうかは見る人次第。だから解釈の余地があるように断定しないよう書いて」

「なんで歴史を記録するんですか」

「なんのためにあなたは歴史を勉強する?」

「今の時代の成り立ちを知るためですか……?」

「そういうこと」

 

どういうことや。

何のために使うのかはっきりしていないから、年表のためにどう清書すればいいか分からない。ので、聞いたけど特にそれに対する答えはない。ある程度決まりがないとやりづらい。けど席を立たれたのでもう聞けない。考え込んでもタイムリミットは迫ってくるので、つらつらと書きなぐった生データの清書は以下の基準でやった。

 

一つ、同じことについて書かれている箇所は古い時間にまとめて書きほかを削除

一つ、観察者の主観が入ったものは全てその他に分類

一つ、後々つながっていないであろう出来事は削除(くしゃみをした、など)

 

いま書き出していって気づいたのは、このこと他の参加者二人には共有してなかった。ただでさえ観察している人が三人のひよっこ観察者で主観が少し入っているのに、清書も基準なくやっているからぶれぶれだー。

 

実際、懇親会のとき、観察対象の方から「年表みたら何となく誰が書いたか分かる。詳しく書いていたり素っ気なかったり主観があったり書き込み具合が違うから」というお言葉をいただいた。

 

必死になっていたから表記ブレに気をつける余裕がなかったんだと気づいた。

 

 

【こうして歴史は改変されていくのか】

同じく懇親会のとき、観察対象の実施者(先生、仕掛人の様な立ち位置)の方がつぶやいた言葉。

 

「年表では僕が言った言葉全て指令って書かれてて、ちょっと意味違うなぁ。あぁこうして歴史は改変されていくのか、と思った」

 

このことに関しては本当に盲点だった。

年表は下記の様に書くとそれっぽいよといただいたフォーマットに沿って清書していた。

 

・苗字、ほにゃらら(できるだけ体言止め)

・苗字、「ほにゃらら」と発言

・苗字、指令「ほにゃらら」

「ほにゃらら」とする説あり

「ほにゃらら」とみるむきあり

 

フォーマット化してまとまりのある表現をするより、より意味の近しい言葉で表現しないといけなかった。ニュアンスが少しでも違うと、少しずつ違う意味に捉えられるからだ。

 

 

【言語が違う】

1日目、2日目は感じなかった言語の違いがポスター制作のときにはっきりとした。

 

ポスター制作とは言っているけど、私たちの場合は「自分の陣地に来た人にプレゼンするために、ホワイトボードに直で文字書いて関連の紙資料を磁石やマスキングテープでペタペタ貼る作業」略してポスター制作。他テーマの参加者さんたちは模造紙に書いたりデータを出力して貼ったりと様々。

 

私は美大だからか、ポスター制作を頼まれた。私以外の人たちは同時並行で年表の作業をしている。大まかに入れる内容を実施者とタイマンで話し合ったあと、その内容をどう組むかの作業に入った。

 

このポスター制作時のもやもやはうまく表現できなかったので、そのままその時の心情をだらだらと書く。

全分読まなくても多分大丈夫。

 

**********(以下ポスター制作時の心情)************

できあがった年表のが大事だから、プロセスをグダグダ書かない方がいいかな単語で書こう。使用した紙資料の内容をホワイトボードに書き出そうとしても膨大すぎて散らかって何が言いたいのかより分からなくなるから書き出さんことう。でもプロセス指差して「ここどんなことしたの」と聞かれたとき用に紙資料をきれいに束にして貼ろう。プレゼンまで残り2時間切ったのにまだ年表の内容いじってる、から年表完成したとしても印刷データ作る時間ないだろうな~~よしモニターどっどーんと置こう。あと多分ここのチーム何やってるか他の人から見て、分かんないだろうな。キャッチコピー入れた方が、通りかかったとき気になるよな。正式テーマの下に『私たちは34番の歴史を記録していた』って書こう。

「あっこの資料あるよ」

うわー黄緑色の色画用紙に貼られた紙資料追加された。なんで色画用紙に貼ったんやろ。だsよしプロセスに関連する紙資料を黄緑色の色画用紙に貼ろう。そうしよう。

 

「年表の凡例できた。どこに貼る?」

あっそれも貼るんですね。色いっぱい入れたら視線誘導しづらいから抑えたい。黄緑は確実に使わないといけない……。凡例は重要そうだから赤で目立たせよう。

私「プロセス関連の資料は黄緑色の色画用紙に貼ってるから、その年表関連の資料は目立つよう赤の色画用紙に貼ろう」

「うんわかった。貼っとくね」

と色画用紙に貼られた凡例は黒色の色画用紙に貼られてた。私赤って言ったよな。赤の理由も言ったよな。言語が違うのか。もういいや。私は今からモノクロの世界に入るんだ。情報をプレゼンしやすくかつ伝わりやすいよう、整理して配置しよう。そうしよう。

「観察中の写真印刷してきたよ~」

また追加資料かい。もういいや。ペタペタ貼っていいや。なんか作業した感出るようにいい感じに勢い付けて貼ろう。

「あっそう観察中に計測してた気温や二酸化炭素量のデータも印刷し

ピンポンパンポーン「お昼です。会場をプレゼン用にレイアウトし直すので参加者の皆さんは会場から退室してください」

 

昼ごはん。作業しながら昼ごはん。年表の組み立て作業は大詰めなようであとは、弥生時代・江戸時代といったような時代区分を入れるだけのようだった。そのため年表にかかりっきりだった人たちがポスター制作に目を向けた。

「デザインのことよく分からないけど、ホワイトボードに貼ってある内容を四角い感じにプロセス通りにしたらいいのかも」

「(情報の順番整理するのデザインならレポート書くのもデザインであって、あなたの方が手練れているのではないのかなあと追加資料が続々ときてペタペタ貼られt)そうですね。私もそう思います。ところで四角い感じって何ですか」

**********(以上ポスター制作時の心情)************

 

何が言いたいかというと、

「全員相手の立場を考えず、自分のあたりまえで行動している」こと。

 

・追加資料があることを言わない

(追加資料が来る前にこんなレイアウトにしますねって報告したとき「うんいいね」としか言ってなくて、私がホワイトボードに書き込みをしている間にせっせと追加資料の印刷をする)

・目の前に紙とペンがあるのにレイアウト案を抽象的な言葉で説明する

・色に意味をつけて情報を整理する(言い方がわからない)ことを伝えない

 

あっこれ言語が違うのか、と思った。

文化が違うというよりかは、言語が違う。特に3つ目のことに関してはそう。

私が専門的に学んでいる分野でのあたりまえを押し付けていた。そのことに気づかなくて、なんで言った通りにしてくれなかったんだろうと思っていた。

 

 

【「選ばれたのは見た目がいいやつ」でした】

プレゼン終わりに各章の発表があった。

選ばれたのはほぼほぼポスターの見た目がいいものばかり。

やっぱ見た目がいいと目を引くし整理されているものがほとんどだからわかりやすいのかなーと思っていたら締めで主催の方も同じようなことをおっしゃっていた。

 

すごいことをしていたとしてもポスターの見た目によって読まれなかったものもあるんだろうなと思い「もや〜」とした。ポスターの出来も成果物に入るけどそこの入り口で弾かれて見られすらしないのはどうなんや、と。その「もや〜」に近いこと言っているものがこちら。

そしてこの方法は、今回ご紹介した可読性、視認性、判読性が低いと、一気に情報が伝わらなくなってしまいます。

せっかくがんばって作ったチラシや執筆した文章が、

「何だか文字がわかりづらいな、読むのやめとこ。」

「何だか文字が見えないな、読むのやめとこ。」

「何だか文章の意味がわからないな、読むのやめとこ。」

このように判断されては非常にもったいない。

ちゃんと読んでもらえば良さはわかるはずだ!と思っても、そもそも読まれなければ意味がありません。

文章の読みやすさを決める可読性、視認性、判読性とは

 

研究したことや発見したことがいいことなんではなくて、それを第三者に伝えることに成功して初めて研究や新発見「した」ことになると考えているからなのかな。自分でもよくわからない。

 

 

 

【参加して思ったこと】

言葉ってすごいんだな、と改めて思った。

 

「あ」で伝わる新聞に書かれた某局の番組名。

「赤色の画用紙に貼って」ではあたりまえを押し付けていて意味が正確に伝わらなかった言葉。

「指令」と表記を揃えるために書いて意味が変わる言葉。

 

すごいTPOによって違う。

最近、この世のすべての問題は言葉足らずが原因なんじゃないかと思い始めていたのが確信に変わった。(ただし人間関係に限る)